「グローバル英語」とは

第二言語としてのグローバル英語
Global English as a Second Language

世界共通語を必要とする時代
21世紀に入って人類は歴史上初めて真の世界共通語を必要とする時代を迎えた。かつて東アジアに漢語、ヨーロッパにラテン語という地域共通語があったが、その適用範囲は質量ともに極めて限定的なものにすぎなかった。人・モノ・カネ・知識・情報が世界中を縦横無尽に飛び交う現在の状況は、当時とは比較にならない。人類はまったく新しい歴史的段階を迎えたのである。

この新しい歴史的段階に必要不可欠な存在が真の世界共通語である。それなしでは人類はこれから新たな地平を切り拓いていくことはできないだろう。では、新たな時代にふさわしい世界共通語とはどのようなものであるべきか。

真の世界共通語は、「万人に対する公平・平等」「実用的・汎用的」という2つの条件を同時に満たす必要がある。万人に対する公平・平等は人類がつくりあげてきた最も重要な価値である。新たな時代の基盤となる世界共通語はこの価値をなによりも厳守しなければならない。だが公平・平等なものであっても、それが実用的・汎用的つまりすべての人々にとって実際に役に立つものでなければ意味がない。

この2つの条件を同時に満たす既存の言語は存在しない。世界共通語のデファクトスタンダードとされているネイティブ英語は英語ネイティブの支配下にあることから「万人に対する公平・平等」という人類にとって最も重要な価値を保持していない。これは世界共通語としては致命的な欠陥である。いっぽうでエスペラントのような人工言語は「万人に対する公平・平等」を満たしてはいるが「実用的・汎用的」という条件を満たしていない。今後も満たすことはできないだろう。

GESLは世界共通語の2つの条件を同時に満たす
「Global English as a Second Language」(GESL、第二言語としてのグローバル英語)は、この2つの条件を同時に満たす世界共通語として私(成瀬)が提唱するものである。

GESLはネイティブ英語を母体として生み出されたものであるが、しかしネイティブ英語とはその本質が異なる別の言語である。ネイティブ英語との決定的な違いは、その規範や価値基準を決定する権利が世界のすべての人々に公平・平等に与えられている点にある。GESLを世界共通語とすることで、グローバルコミュニケーションにおける英語ネイティブの特権を剥奪することができ、万人に対する公平・平等という人類にとって最も重要な価値を保証することができる。

世界共通語のもうひとつの条件である「実用的・汎用的」に関してはGESLがネイティブ英語を母体としているということが極めて大きな利点となる。人類の活動はグローバル化が急速に進み、その結果としてグローバルな知の資産の多くがすでに英語で保存されている。グローバルコミュニケーションもその大半が英語によってなされている。英語の教育はすでに世界中で実施されている。言語の普及は不可逆的なものであることからみて今後もこうした状況が変わることはないだろう。ネイティブ英語を母体とすることによってGESLはこれまでに蓄積されてきた英語での知的資産、コミュニケーション活動、教育活動を十分に活用することができる。これはGESLの実用性と汎用性の十分な確保につながるものである。

GESLに対する反論、反論への反論
以上の主張に対しては次のような反論が考えられるだろう。

まずGESLはこれまでに提唱されてきたさまざまな英語バリエーションと同じものにすぎないのではないかという反論である。これに対しては次のことを反論への反論として挙げておく。すなわちGESLはネイティブ英語とはその本質が異なる別言語である。決してネイティブ英語の単なるバリエーションなどではない。ゆえにネイティブ英語を第一言語とする人々もまた世界共通語としてのGESLを第二言語として習得する必要がある。

次にGESLは現実の世界には適用できないとの反論が考えられる。現実の世界はパワーによって動いており、従って現実的に最もパワーのある言語すなわちネイティブ英語が今後も世界共通語の地位を占め続けると考えるのが妥当である。万人に公平・平等な世界共通語の普及など単なる机上の空論にすぎないと一部の人は主張するかもしれない。

こうした主張をする人に尋ねたい。ではなぜ私たちは「人は自由、かつ諸権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的区別は、公共の利益への考慮にもとづいてしか行うことはできない。」を第一条とするフランス人権宣言を生み出すことができたのか。万人が等しく選挙権を持つという現在の政治形態をなぜ実現することができたのか。このような理念や制度を単なる机上の空論にすぎないというのか。これらの理念や制度と同様にGESLという理念と制度の普及には長い時間と多大な努力が必要となるだろう。だがそれは決して単なる机上の空論ではなく、そして不可能でもない。

だが、と一部の人々はさらに次のように反論するかもしれない。現実問題として現在のグローバルコミュニケーションの世界はネイティブ英語が支配をしている。たとえば学術論文を世界に発表するにしても英語ネイティブチェックを受けなければ高い評価を得ることができない。その他のさまざまなグローバル現場でもテキストが英語であれば英語ネイティブにつくってもらうか最終的に英語ネイティブのチェックを受けることがやはり必要不可欠である。GESLだけではこの現実に対応ができないのだ、と。

この反論への反論はきわめてシンプルである。すでに述べたようにGESLが普及するには長い時間と多大な努力が必要となるだろう。普及までのあいだは現場でさまざまな問題が生じ、それに対する現実的な対応が必要になるはずだ。そうした問題への対応のひとつが英語ネイティブによる作成・チェックなのであれば、それを実行すればよい。そのことはGESLの理念や存在を否定するものでは決してない。なによりも重要なのは、たとえ長い時間と膨大な労力がかかろうとも、その道程にいくつもの問題があろうとも、GESLという世界共通語を世界に普及させるという意志を持ち続けることにある。

これらの反論とは別次元のものとして、言語的な観点からの反論も考えられる。それは、GESLは万人のための世界共通語だというが、ではその規範や基準を誰がどのようにして決めていくのか、世界の各文化や文明がそれぞれ大きく異なるなかで統一化された言語規範や評価基準を定めることはきわめて難しいのではないか、というものだ。

この疑問に対しては、「多元主義」「複眼の思考」「多様性の尊重」といった理念が解決への道筋を示してくれるだろう。これは、言語の規範や評価基準の中核部分については世界的に統一する一方で、他の部分については大きな弊害を生み出さないかぎりにおいて世界の各文化・文明のあいだでの揺れを許容する、という考え方である。従来の言語規範・基準を「固い規範・基準」と呼ぶとすれば、「柔らかい規範・基準」と呼んでよいだろう。

日本人にとってのGESLとは
ここからは一人の日本人としての立場からGESLすなわち「日本人の第二言語としてのグローバル英語」に対する私(成瀬)の考えを述べたい。

日本は建国から近世までは中国の文明文化を、近代から現在までは西欧の文明文化を積極的に受け入れることで、みずからの文明文化を進化発展させてきた。だが人類の歴史が真のグローバル化という新たな局面を迎えたいま、そうした受信型の文明文化のあり方はすでに限界を迎えている。これからの日本は受信だけではなく世界への積極的な発信が必要不可欠になるだろう。

そして一人一人の日本人にとってもこれからは積極的なグローバル発信が必要不可欠な能力となっていくに違いない。なおここでの「日本人」とは人種や国籍にかかわらず日本の文明文化のもとで育ち日本語を第一言語としている人間のことを指す。

その際に最も重要となるのは、自分が日本人であることを見失うことなく、そのうえでみずからをローカルからグローバルへと成長させながら、自分自身の言葉で、世界へと発信をしていくことである。そしてそれを実現するための最適の言葉が、「日本人の第二言語としてグローバル英語」である。

約50年前、英語の世界へと足を踏み入れたときに私をもっとも驚かせたのは、英語を学ぶ日本人のネイティブ英語に対するあまりにも強いあこがれの気持ちだった。ときにそれはあこがれに通り越して崇拝にまで達しているかのようにも見えた。

当時のその印象はいまも変わっていない。書店には「ネイティブが教える英語」「ネイティブからみてここがおかしい日本人英語」などといったタイトルの本がずらりと並んでいる。巷では英語ネイティブによる英会話レッスンが盛大に繰り広げられている。こうしたネイティブ英語に対する隷属的なメンタリティから脱却し、独立自尊の精神を取り戻すべき時代がやってきているのではないだろうか。私たち日本人が「彼らの英語」ではなく「私の英語」であるGESLを習得すべき理由がここにもあると私は考える。

2025年2月
成瀬由紀雄