こんにちは。「ことさきく」運営スタッフの髙橋です。
こちらの「つぶやき」コーナーでは「ことさきく」運営スタッフ――全員成瀬先生の弟子です――が先生の難しい理論をわかりやすく、それぞれの感想を交えながら解説しています。
師走に入ると何となく気忙しくなりますね。
そこで今回は読点について書いてみます。
現代日本語文の読点「、」には意味の区切りと同時に息継ぎの意味があります。
その点が英語のカンマ「,」と違うところです。
でも、小学校や中学校で文の書き方を習ったとき、意味の区切りという以外に「どういうところで読点を打つと文章が読みやすくなり上手になりますよ」ということを習った記憶があるでしょうか?
私はないです。
自分で意味の区切りと思うところに打つのと、あとは感覚まかせです。
成瀬先生に翻訳を習うようになって、私の読点の打ち方が「なってない」と言われるようになりました。読点を「ここぞ」というところに打つことで文章の価値を上げるのだとおっしゃるのです。びっくり仰天です。そんな効果がただの「、」にあるとは今まで考えたこともなかったので。
読点はただの息継ぎや一休みではないのですね。
ここまで書いてきて見直すと、私の文は読点が多いなと思います。
句読点の意味や歴史については、成瀬先生のnote 「日本語文法|段落」 (https://note.com/naruseyukio/n/n0c9e20203cf0) をご覧ください。また、柳父章の「日本語の思想」という本でも詳しく論じられているそうです (ただしこの本は絶版のようです)。
かいつまんで言うと次のようになります。明治時代に西洋から文物がどっと入ってくるまで、日本語の文には句読点はなかった。そもそも日本語には主語で始まり句点で終わる文というものがなかった。今私たちが使っている文と句読点は英語のsentence とカンマ、ピリオドを手本にして作られたものである。
案外歴史が短いようです。そして私たちが小中学校で受けてきた国語教育はそういう歴史を念頭に置いていないということです。
それで文の価値を上げる読点の使い方ですが、これまた私はまだ身につけられていません。正直なところ、先生の添削で読点を削除された文でどの程度価値が上がっているのかがよくわからないのです(ダメ弟子で申し訳ないです)。
これもこれからの課題とさせていただきます。
最近はLINEなどのチャットで「。」で終わる文を送るとパワハラと受け取られてしまうことがあるそうですから、今後また日本語から句読点がなくなって、古典の融通無碍な言葉の世界に戻っていくなんてこともあるのかもしれません。
私が句読点マスターになる頃には「日本語に句読点はいらない!」なんてことになっていたりして。
