こんにちは。「ことさきく」運営スタッフの髙橋です。
こちらの「つぶやき」コーナーでは「ことさきく」運営スタッフ――全員成瀬先生の弟子です――が先生の難しい理論をわかりやすく、それぞれの感想を交えながら解説しています。
今回は成瀬先生の「こころの日本語文法」理論の根幹、モダリティについて掘り下げてみます。
日本語の文は次のように三層構造になっています。
1)命題:認識や思考の中核にあるもの、言いたいことの中心。
2)対事的モダリティ:命題に対する主体的判断。例えば命題のどの部分を主題とするか、など。
3)対人的モダリティ:命題や対事的モダリティを相手に伝える際に配慮すること。丁寧表現など。
成瀬日本語文法理論では、この日本語文の構造を「まんじゅう」にたとえています。
中心のあんこにあたるのが命題、それを包む皮が二重になっていて、餡子のすぐ上が対事的モダリティ、一番外側が対人的モダリティです。

ただし、ここで大事なことは、この三層がまんじゅうほどはっきり分かれていないということです。
命題部分にも、対事的モダリティや対人的モダリティが混ざっています。逆ももちろんあります。渾然一体となっている場合もあります。
まんじゅうというより、色づけられた餡を重ねて作られる上品で繊細な上生菓子のほうがイメージに近いように思います。特に京都の和菓子屋さんの練り切りは美しいですよね…。
それはともかく。
実は、私がこの三層構造を教えていただいてから一番わかりにくかったところが「対事的モダリティ」でした。
今回この原稿を書くにあたり成瀬先生から特別レクチャーしていただき、ようやく概要がわかりました。それと、なぜわかりにくいかもわかりました。ここでそれをお披露目します。
対事的モダリティとは:
ある文の(要素だけでなく)全体の背後にある話者の自己認識や主観のすべて。必ずしも言葉に表れていない場合があるため見分けにくい場合も多い。
それに対して対人的モダリティの方は聞き手という相手を意識するため基本的には文中に表現されています。丁寧語などが最たる例でわかりやすいことが多いように思います。
例文.「吾輩は猫である」
まんじゅう構造にうつすと次のようになります。

この文の三層構造をできるだけくわしく書いてみると次のようになります。
命題:私が猫であること。さらに言うと吾輩と自称する猫であること。それを断定していること。
対事的モダリティ:「吾輩は」と自称する猫の自己認識と、それを主題にしようとする話者の意識、「である」と断定する話者の意識。この文が暗示するニュアンスまで含む。
対人的モダリティ:「吾輩」という自称で相手に自分を偉く見せようとする意識。丁寧語ではない「である」を使うことで同じく相手と対等または相手より上に自分を置こうとする意識。
この分け方や解釈に唯一の正解というものはありません。というのも、話者の主観(この文の場合だと夏目漱石か「吾輩」)は読者である私の推測の域を出ないからです。
こう考えてくると「吾輩は猫である」が I am a cat. ではダメな理由がわかりますよね。
I am a cat.は、「私が猫であること」という命題の中の一部しか表せていないからです。
「吾輩は猫である」の「こころ」、すなわちモダリティが含まれていないからなのです。
吾輩のニュアンス、「である」という断定のニュアンスを英語でどう表現したら良いでしょうか???
私にはできる気がしません。
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日本語話者はだれでもこの命題とモダリティを無意識に使っています。
それを意識的に自在に使いこなせるようになると表現の幅が格段に広がります。
小説家にはなれなくても、ちょっとしたメールの文くらいなら少し格調のある文にしたり、説得力を持たせたりすることが可能になるのではないでしょうか。
言葉は単に他者に物事を伝えるための道具ではありません。自分の感情や思考を自分で認識して明確にするためにも使われます。例えば、表現力やボキャブラリーが足りないこどもは考えていることを頭の中でまとめて人に伝える力がないためキレやすいともいわれています。
日本語に対する意識を子どもの頃から培い、大人になってもブラッシュアップし続けられたら、きっと豊かな人生につながると信じています。
以上、今日のつぶやきでした。
(運営スタッフ:髙橋 ―― 一番好きな和菓子は「もなか」)
