新しい英語の学び方

英語教育論では、発音や語彙といった領域での学習に関してはその意義や手法について論者のあいだで意見が大きく分かれることはほとんどない。たとえば発音についていえば、いわゆるネイティブ発音にどこまで近づけるべきかという点で意見の相違はあるとしても、カタカナ発音でもよいとする意見はまともな論者からは出てこない。

ところが英文法の学習に関しては、文法を学習の中心におくべきだという意見から、文法などまったく必要がないという意見まで、じつに多種多様な意見が存在するのである。そして前者の代表格が「文法訳読主義」であり、後者の代表格が「コミュニカティブ・アプローチ」だといってよい。

両者は1970年代に学校英語教育での覇権をかけて壮絶なバトルを繰り返したが、結果はコミュニカティブ・アプローチ派の圧勝に終わった。その結果、1978年に文部省は学習指導要領を改訂して高校での英文法の科目を削除した。戦いに惨敗した文法訳読派は学校英語教育での地位を完全に失い、落武者となって各地に散じた。

それから30年以上が経過したが、学校英語教育におけるコミュニカティブ・アプローチの覇権はいまやさらに磐石なものとなった。小学校には英語コミュニケーション教育が導入され、高校では2009年の新高校指導要領でリーディングとライティングの科目が削除され、また英語の授業はすべて英語で行うという方針も打ち出された。

多くの一般市民はこの英語授業の「構造改革」を大いに歓迎しているようだ。これでようやく自分たちの子供たちは(自分たちとはちがって)英語を使える「国際人」になれると考えているようである。悪いのはいままでの文法偏重の英語教育であり、いままでの英語を使えない英語教師たちであるから、それが変わればすべては変わるはずだという期待感である。

だが何度もいうが、文法偏重の英語教育などいまの日本には存在しない。この30年以上にわたって学校英語が目指してきたのは文法重視の英語教育ではなくコニュニケーション重視の英語教育であり、文部科学省はいまそれをさらに強化しようとしているのである。したがって現在の動きは構造改革などではなく「体制強化」である。

この30年間の日本の英語教育の在り方が日本人に与えた負の影響はあまりにも大きい。コミュニケーション重視で英語力の読解力が落ちたなどということは実はたいしたことではない。きわめて乱暴にいってしまえば英語が読めなくても日本人はべつに困らない。必要なら日本語で読めばよいのだ。それでも十分に世界の知識は吸収できる。つまり「国際人」にはなれるのである。

英語教育のコミュニケーション化によって日本人が失ってしまった最も重要なものは、言葉の学習を通じての知的訓練の場である。コミュニカティブ・アプローチ以前の文法訳読主義が言語教育としてきわめて歪んだものであったことは言うまでもないが、その一方で、それは言語を通じての知的訓練の場を学習者に提供していた。そして国語という科目が言語教育ではなく文学教育一辺倒である日本の教育的伝統のなかでは、言語の分析運用を通じて知性を伸ばす訓練を行える教育の場としては、英語の授業がほぼ唯一のものだったのである。

英語教育の歪みを正すべく旧来の英語教育法を捨て去る過程において、我々はその言語的知的訓練の場も、同時に捨て去ってしまったのである。産湯(うぶゆ)とともに赤ん坊を流してしまったのだ。

そしてその結果、どうなったのか。日本人の知的言語運用能力が大きく劣化してきているのである。たとえば30代よりも下の世代の日本人はそれよりも上の世代にくらべて、自分の考えを知的に言語化することが苦手になってきているようである。というよりも、そうした訓練を十分に受けてきていないように私には思える。能力の問題ではなく、訓練つまり教育の問題なのである。

振り返ってみれば1970年代の文法訳読派とコミュニカティブ・アプローチ派との論争は、日本の英語教育を本当の意味で改革するための絶好のチャンスであった。ところがそこから生まれた結果は、伝統手法の完全否定と欧米手法の無批判な導入にすぎず、それがその後の日本の英語教育を大きく劣化させることとなったのである。現在文部科学省が進める英語教育「改革」は、こうした劣化をさらに加速させようとするものである。なぜここまで愚かな行為を繰り返すのか、私にはどうしても理解できない。

私たちは、もはや暗号解読の道具である文法訳読法に英語教育を戻すことはできない。いっぽうで、学校教育の原点である知的訓練を無視した欧米直輸入のコミュニカティブ・アプローチを、このまま野放しにしておいてよいはずがない。いま私たち英語教育関係者に求められているのは、文法かコミュニケーションかなどといった不毛な議論などではなく、良き日本人としての国際人を育てていくための、日本人の日本人による日本人のための英語教授法を確立することである。

こうした視点から英語教育の改革を目指そうとするものにとって、いまの状況はきわめて厳しい。そこには文部科学省と既存の英語教育界という巨大な権力機構が立ちはだかるからである。だがそれでも何かできるはずだと私は考える。その何かをこれからもあきらめずに追いかけてゆきたいと思う。

(2010年初出、「翻訳講座道中記<弐の巻>」より)

目次