おとぎばなしと翻訳

子供たちがまだ本当に小さかった頃のことです。寝かせつけようとすると蒲団のなかで「おはなしー、おはなしー」といってせがみます。そこで、うろおぼえの桃太郎や花咲爺さんや舌切り雀を話してきかせてやりました。私が「おーきなモモが、どんぶらこっこー、どんぶらこっこーと、ながれてきました」というと、ちいさな体も蒲団のなかで大きくゆれます。
ある日、一寸法師のおはなしをしました。おはなしがすすんでいって、「とうとう、いっすんぼうしは鬼に…」というと、かれらの体がすっとかたくなります。そして「…くわれてしまいました」というと、まるで心がどこかに消えてしまったかのような表情になります。しかし「すると、きゅうに鬼が、あいたた、あいたた、とあばれだしました」とつづけると、えっ、という表情にかわり、「じつは、鬼のはらのなかで、いっすんぼうしが…」というと、あっ、生きていたんだというふうに表情がいきいきと輝きだし、「…ちいさなかたなを、つきたてていたのです」というと、やったやったと蒲団のなかで小刻みに飛び跳ねています。
おそらくこうした光景は、世界中でみられることでしょう。イギリスではベッドのなかでお母さんやお父さんから、”At last, Alice found …”ときいた子供たちが、アリスはいったい何を見つけたんだろうと、どきどきしながら次の言葉を待っているはずです。そして中国やタイやエチオピアの子供たちも、お父さんやお母さんからきくおとぎばなしに、よろこんだり、かなしんだり、どきどきしたりしているのです。

さて、ここからは翻訳のはなしです。みなさんは翻訳をするときに、「文」を一つの単位として処理していることがほとんどですね。なぜでしょうか。それは言語の基本単位は文であると、無意識的であれ意識的であれ、どこかで教わったからです。一種の刷り込みですね。じつはこういった刷り込みが、ほかにもずいぶんと多いのです。
しかし「言語の基本単位は文である」ということは、つねに本当というわけではありません。たしかに言語を科学的に探求する場合には、文を一つの基本単位と規定することには意味があるのでしょう。しかし翻訳においてはそうではありません。なぜなら、文の単位にして言葉というものをとらえると、そのことで本当に大事なものがこぼれ落ちてしまうことが多いからです。
言葉にとって本当に大事なものとは、子供たちがおとぎばなしを聞いたときにつぎつぎと感じる、あの心やからだの動きなのではないでしょうか。言葉の本質とは言語学者たちのいうような「言語規則とその表現の総体」ではないように思えます。「いっすんぼうしは鬼に…」、「すると鬼は…」、”At last, Alice found …”、とつぎつぎと耳や目に入ってくる言葉にあわせて、私たちの心やからだもまた次々と動くこと――それが「きく」「よむ」ということであり、そしてそれこそが言葉の本質ではないかと私には思えます。翻訳者はこのことをいつも心に留めておかなければなりません。それでないと「言語規則にあわせて表現を変換していく」ことが翻訳というものだとついついカン違いをしてしまいがちです。もし言語規則にあわせて表現を変換していくことが翻訳なのであれば、それはコンピュータにおまかせしたほうがよろしい。そしてその際に必要となるのは翻訳エンジニアであって、私のいう翻訳者の出る幕ではありません。

ここまでは「きく」「よむ」――つまり言葉の受け手の視点から言葉というものをみてきました。それでは、こんどは「はなす」「かく」――つまり言葉の送り手の視点から言葉というものをみてみましょう。
子供たちに話してきかせるおはなしも、しばらくするとネタ切れになりました。しかたがないので、オリジナル版をつくることにしました。当時は吉祥寺という街の近くに住んでいたのですが、その駅前に10年ほども空家になっている有名なビルがありました(いまは雑貨屋が入っています)。私たちはそれを「ゆうれいビル」とよんでいたのですが、じつはそのビルのなかには、秘密のチーズケーキ工場があって、そこでは長い長いシェフハットをかぶった得体の知れない太ったおじさんが、せっせせっせと甘くておいしいチーズケーキを焼いており、ここに二人の子供(むすめとむすこです)がひょんなことから迷い込んでしまい、その秘密を知ってしまった……というようなストーリーです。まあロアルド・ダールの有名な「チョコレート工場の秘密」のリメーク版のようなたわいのないものなのですが、これは受けました。なにしろ場所はよく知っているし、登場人物も自分たちを含めてほとんど知っている人間ばかりなのですから、面白くないはずがありません。子供たちはおおいに喜んで、「つぎ、どうなったの?」「ねえ、そのつぎは?」とどんどんとおはなしの続きをせがみます。そこで私は、なけなしの知恵をしぼりにしぼって、「じつは、おじさんの焼いているチーズケーキには、あるメッセージがかくされていたのです…」とかなんとか、はなしをでっちあげていくわけです。
さきに、つぎつぎと耳や目に入ってくる言葉にあわせて、心やからだもまたつぎつぎと動くことが「きく」「よむ」という行為だといいました。それでは、もういっぽうの「はなす」「かく」という行為は一体どのようなものなのでしょうか。おそらくそれは、心やからだのなかでつぎつぎと動くなにかを、その動きにあわせてつぎつぎと言葉におきかえていくという行為ではないかと私は思います。たとえばチーズケーキ工場のおなはしを語る際に「じつは…」といった時点では、言葉の送り手である私のなかでも次の言葉はまだはっきりと定まっていません。そこから心の中にあるなにかを一生懸命さがしてきてそれを「おじさんが焼いているチーズケーキには…」と言葉におきかえ、それが終わるとまたまた心の中を一生懸命さぐったうえで「…あるメッセージがかくされていたのです」と言葉におきかえていくわけです。これが「はなす」「かく」という行為の本質ではないかと私は思います。

翻訳者の仕事は、原文を書いた「書き手」の心の動きをまず追体験するところからはじまります。翻訳者はまず原文の書き手と自分とを一体化させます。たとえば、”It is also expected…”という文を読みつつ、同時に書き手の気持になって、つぎは何を言葉にしようかと心の中にあるなにかを一生懸命さがします。このとき翻訳者は、読み手であると同時に、書き手の分身でもあるのです。
こうして書き手の心の動きを追体験しつつ、それを自分自身の心の動きへと重ねあわせていくと同時に、こんどは、翻訳者はそれを自分の心の動きとして..........自分の言葉におきかえようとします。このとき翻訳者は、書き手の分身であることを離れ、原作者の心の動きと重なり合ったもう一つの心をもつ、ひとりの「書き手」へと変身します。これが翻訳という行為だと私は考えています。翻訳者は、原作者の分身であると同時に...、独立したひとりの書き手でもあるのです。
しかしよく考えてみれば、この「追体験」というものは人間同士が通じあうことにとっての原点であり、文章を読むとは、つまりは他人の心の動きを追体験することにほかなりません。これを読んでいる皆さんも、おそらくは私の心の動きを「追体験」しているのですから。そうやって考えると、翻訳という行為がとりわけ珍しいものではなく、たんに読書、いやさらにいえば人間理解の延長線上にあるのだということがわかります。もちろん、そこから独立したひとりの翻訳者となるためには、言語の違いというものを乗り越えなければならず、そのためには言葉を客体化する必要があり、したがって翻訳対象となる日英両言語の構造を明確に把握しなければなりません。これが文法を勉強するということなのですが、それが翻訳にとって本質的な話ではないことは、ここまで述べてきたとおりです。原文を読みつつ書き手の心の動きを追体験する→それを自分自身の心の動きへと重ねあわせる→それを自分の心の動きとして自分の言葉へとおきかえる、これが翻訳です。言語構造や語彙の理解、そして専門知識の習得とは、この翻訳行為をたすけてくれる便利な道具にすぎません。道具を磨くことは大事ですが、それがすべてとなってしまうのは愚かなことです。
これから翻訳者を目指す方には、まずは原作者の心の動きをしっかりと追体験していただきたいと思います。そのためには、とにかく原文を深く、深く読むことです。すべてはそこからはじまります。そして原作者と心の動きが重なり合ったとき、はじめてそれを自分の言葉にしてみてください。たしかにたいへんな仕事ではありますが、これは人間にしかできない仕事です。ぜひ頑張ってください。

(2008年初出、「翻訳の教科書」より)

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