明治31年発表の福沢諭吉の「福沢全集緒言」には、若き日の諭吉が、緒方洪庵から教えられた翻訳の心得が述べられている。諭吉にとって、この教えはその後の翻訳の原点となったものである。以下、その部分の原文および現代語訳(成瀬)をご紹介する。
福澤全集緒言より
(略)先ず第一に、余が文筆概して平易にして読み易きは世間の評論既に之を許し、筆者も亦自から信じて疑わざる所なり。今その由来を語らんに、四十余年前、余は大阪の大学医、緒方洪庵先生の門に在り。先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり。然るにこの先生が一旦文事に臨むときは、大胆とも磊落とも譬え難き放胆家にして、その議論には毎度人を驚かすことあり。当時上国にて蘭学の大家と云えば先ず先生一人にして、門生常に門に満ち著訳の書亦甚だ多し。扨大阪を措いて江戸の方には蘭学を以て門戸を張るもの甚だ多くして、その中最も有名なるは杉田成卿先生なり。この人は真実無垢の学者にして、その蘭書を飜訳するには用意周到、一字一句を苟くもせず原文の儘に飜訳するの流義なれば、字句文章、極めて高尚にして俗臭を脱し、一寸手に執りて読下したるのみにては容易に解すべからず、熟読幾回、趣味津々として尽きざるの名文にして、この先生の世に出したる訳書も亦尠なからず。以上二先生は東西学問の両大関にして名望学識共に相下らず、おのおの得意はありながら、その飜訳の風に至ては徹頭徹尾、正反対にして、緒方先生は前にも云う如く一向字句に構わず、荷蘭の文法を明にしてその難文を解釈するは最も得意なれども、飜訳の一段に至れば原書を軽蔑して眼中に置かず、その持論に曰く、抑も飜訳は原書を読み得ぬ人の為めにする業なり、然るに訳書中無用の難文字を臚列して、一読再読尚お意味を解するに難きものあり、畢竟原書に拘泥して無理に漢文字を用いんとするの罪にして、その極、訳書と原書と対照せざれば解すべからざるに至る、笑うべきの甚だしきものなり云々とは、吾々門下生の毎に聞く所にして、その持論の事実に現われたる一例を言わんに、或時門生の一人坪井信良と云う者が、遠方にて何か飜訳したりとて、先生の許に草稿を送りて校閲を乞いけるに、先生は朱筆を把りて頻りに之を添刪しつゝあり。その時、余は先生の傍らに居合せ親しく様子を窺うに、先生の机上には原書なくして唯飜訳草稿を添刪するのみ。原書を見ずして飜訳書に筆を下すは蓋し先生一人ならん。その文事に大胆なること概ね此の如し。その頃余は塾に居て蘭人ペル著の築城書を飜訳する折柄にてありしかば、或日、先生余に告げて云わるゝよう、今足下の飜訳する築城書は兵書なり、兵書は武家の用にして武家の為めに訳するものなり、就ては精々文字に注意して決して難解の文字を用うる勿れ、その次第は日本国中に武家多しと雖も大抵は無学不文の輩のみにして、是れに難解の文字は禁物なり、試に彼等を平均して見よ、足下などは年も少くして固より漢学の先生には非ざれども、士族の中では先ず以て知字の学者と申して宜し、左ればこの知字の学者が洋書を訳するに難字難文を用いんとすれば、唯徒に読者の迷惑たるべきのみ、故に飜訳の文字は単に足下の知る丈けを限りとして苟も辞書類の詮議立無用たるべし、玉篇又は雑字類編なども坐右に置くべからず、難字難文を作り出すの恐れあればなり、但し人間の記憶には自から限りありて易き文字も不図忘るゝこと多し、その時には俗間の節用字引にて事足るべし、医師の流には学者も多くして自から訳字の議論喧しきことなきに非ざれども足下は医流に縁なし、高の知れたる武家を相手にすることなれば、返すがえすも六かしき字を弄ぶ勿れ云々と警められたる先生の注意懇到、父の子を訓るも啻ならず、余は深く之を心に銘して爾来、曾て忘れたることなし。(略
[現代語訳]
(略)私の書く文章はとてもわかりやすくて読みやすいと世間のみんなが認めてくれているし、私自身もその点についてはかなり自信がある。ではなぜそうなったのかについて、これからお話しようと思う。
いまから40年ほど前のことだが、私は大阪にいて、蘭学の大家である緒方洪庵先生のところで学んでいた。先生は、ふだんはとてもやさしくて、情に厚くて、誠実なお方であった。お客様にも私たち門下生にも、いつもいやな顔ひとつせず、あらゆることに丁寧に受け答えをなされていた。人間としてあれほど立派なお方は、なかなかに見当たらないのではないかと思う。
ところが、その先生が、いざ翻訳のこととなると、まあ大胆というか太っ腹というか、なんともいいようがないほどに自由奔放になられるのである。翻訳についての先生のまことに大胆な意見には、まわりはいつも驚かされていたものである。
当時、関西で蘭学の大先生といえば、緒方先生ただひとりであった。であるから、塾生の数はとても多く、蘭学の本や翻訳もたくさん出版していた。いっぽう、関西とはちがって、関東には私塾をひらいている蘭学の先生がたくさんおられた。そのなかでも最も有名な先生が、杉田成卿先生であった。杉田先生は、学者をまさに絵に描いたようなお方であって、蘭学の本を翻訳するときにも、準備に準備を重ねたうえ、一字一句たりとも原文からはずれないように翻訳をされていた。
その訳文をみてみると、知的かつ高級なる雰囲気が満ち満ちている。俗っぽいところなど微塵もない。そのため、ちょっと手にとってさっと読んだぐらいでは、なにが書いてあるのかは、よくわからない。ところが、何度も何度も丁寧に読んでいくと、だんだんと意味がわかってきて、さらに読み込んでいくと、その魅力がさらに増していくというふうであった。杉田先生が出版なされた蘭学関係の本もたくさんある。
緒方先生と杉田先生は、関西と関東を代表する蘭学者であり、専門分野はそれぞれに違うが、実力、知名度ともに甲乙つけがたい存在である。ところが、このお二人の翻訳に対する考え方が、まったくの正反対なのである。
前にも申し上げたが、緒方先生は翻訳に際して、語彙や表現における原文と訳文の対応などまったく気にしておられない。先生はオランダ語の文法構造についてはきわめて詳しく、複雑な構文の把握は一番得意とするところなのだが、ひとたび翻訳となってしまうと、原文のことなどまったく無視されてしまうのだ。
先生の持論は、次のようなものである。そもそも翻訳というものは、原書が読めない人のためにするものである。ところが、必要もないのに難しい字句や言い回しを使いまくって、なんど読んでもなにが書いてあるのかわからないという翻訳書も世間ではよくみかけられる。これはようするに、原文にあわせようとこだわるあまりに、無理やりに難しい字句や表現を使ったせいである。極め付きは、原書とつきあわせて読んでみなければ意味がとれないといった訳書まである。まさにお笑い草というほかはない。こうした話を、我々門下生はよく聞かされたものである。
先生の考え方をよく表している具体的な事例を、ひとつここに挙げておこう。あるとき、大阪から離れていた坪井信良という門下生の一人が、なにか翻訳したからといって、その原稿を緒方先生のところに送ってきた。私は、たまたま先生が原稿を添削するところに居合わせたので、先生が添削する様子をじっと見ていたところ、先生の手元には、その翻訳原稿しかない。つまり原書がないのである。原書をみないで翻訳原稿を添削するのは、緒方先生以外にはいないだろう。まあ大胆というかなんというか、緒方先生のやり方は、およそこんなふうであった。
その当時、私はオランダ人のベルという人が書いた築城書の翻訳にとりくんでいた。ある日のことだが、緒方先生が私にこういわれた。
「いま君が翻訳している築城書は、兵書です。兵書とは、お侍の役に立つべきものであり、お侍のために訳すべきものです。ですから、難しい語彙や表現は絶対に使わないよう、十分に注意してください。
といいますのも、いまの日本にはお侍の数がとても多いのですが、ほとんどのお侍は、あまり勉強が得意なわけではありません。文章を読むのも、たいていのお侍は苦手なものです。そうした人たちに向けての本なのですから、難しい語彙や表現を使うことは、絶対に避けなければなりません。
君はまだ年は若いし、本当の学者でもありませんが、それでも一般的なお侍のレベルからいえば、学者とみなしてもよいほどの文筆家です。その学者レベルの文筆力をもつ君が、翻訳をする際に難しい語彙や表現を使うとすれば、読者である一般的なお侍たちにとっては、ただ迷惑なばかりです。
ですから、翻訳をする際に用いる語彙や表現は、普段から使い慣れているものだけにしてください。辞書などを調べて見つけてきた難しげな表現を使うのはいけません。「玉篇」や「雑字類編」といった専門辞書を手元におくのもいけません。そういったものが手元にありますと、どうしても難しげな表現を使いたくなるものです。ただし、人間の記憶力には限界がありますので、普段使っているようなやさしい表現をふと忘れてしまうこともあります。そのときには、一般向けの日常用語辞典などを調べてみればよろしい。
医者のあいだには学究肌のものも多くて、翻訳のあり方について議論が噴出することもないことはないのですが、しかし君は医学とは無縁の人間ですし、お侍というのは、文章理解力という点では、たかが知れております。そうした人間たちを相手にするのですから、けっして難しい語彙や表現をもてあそんで使ってはいけません」
先生は、まさに親身になって、こう教えてくださった。私はこの先生のアドバイスを深く心に刻み、それ以来、決して忘れたことがない。(略)
(2010年初出、「翻訳講座道中記<弐の巻>」より)